苫野一徳氏「屋根の上に吹く風は」を大いに語る!

 鳥取県「新田サドベリースクール」の一年間を追っかけたドキュメンタリーフィルム「屋根の上に吹く風は」が12月3日より、Denkikanで公開となりました。熊本での公開を記念して12月5日にトークイベントがおこなわれました。
 これには日本の学校教育改革を先導する熊大の苫野一徳准教授がメインスピーカーとして登壇しました。また映画館のスクリーンにZOOM画面を大映しするという画期的な方法で、浅田さかえ監督と新田サドベリースタッフのようちゃんも参戦してのセッションも実現しました。トークイベントに参加できなかった方々のために苫野先生のお話をかいつまんで掲載いたします。

 サドベリースクールの教育について、多くの人は「遊んでばかりでいいのか?」「勉強しなくていいのか?」「わがままを認めることになるのではないか?」という3つの疑問をもつのではないでしょうか。これらはすべて、教育学的には答えが出ていると言えるのではないかと思います。
 「遊んでばかりでいいのか」への答え…教育の基本中の基本は「遊び浸るから学び浸る」。遊びの中に教育に必要なことはすべて含まれています。幼児教育では遊びが重視されているのに、小学校に入学したとたん、「今は遊ぶ時間」「今は勉強する時間」という風に遊びと学びが分けられてしまいます。その結果、遊びは楽しいもの、勉強は楽しくないものという意識を植え付けられてしまう。これでは学びを阻害してしまいます。遊び込んだ子が立派な探究者になっていく、自分で問いを見つけて、自分でいろいろなものを探究していくことができる、遊びからそういう素地をつくっていけることが色々な研究で分かっています。
 「勉強しなくていいのか」への答え…多くのサドベリーでは、映画に出てきた「がじゅ君」のように、あるときに学びたくなる、学びたくなったら数か月で何年分のカリキュラムを終えてしまうという例が続出します。本場のサドベリーバレースクールでも、たくさんのレポートにあるんですけど、これは認知科学や学習科学では当たり前のことなんです。私たちは時間割通りに進めていくのが当然だと思っていますが、時間割というのは、ものすごく効率が悪いのです。本当はいま算数やりたいっていう時に「今は算数じゃありません。国語をしなさい」とやらされたり、算数なんか全然やりたいないと思っているときに「いいから算数の教科書開きなさい」とやられ続けて、みんなで同じことを同じペースで、大人が決めた時間割で勉強していくと、非常に効率が悪いんです。ではどうすればよいかというと、子どもたちのペースで、自分が学び込みたいときに学ぶと、小学校程度のカリキュラムであれば数か月で終えられる。たくさんそういう例があるんです。サドベリーはそういう環境を用意したし、それを実証する場を与えてくれた。追跡調査も数多くあって、サドベリーを卒業した人たちがどうなっているかというと、概ね、みんな自分の人生に満足していると答えています。社会的に成功するからいいということではなく、みんな自分の人生を受け入れて、これはいい人生だなと思えているということがとても幸せなことだと思います。
 「 わがままを認めることになるのではないか?」 …「あれしなさい、これしなさい」「あれするな、これするな」と大人はすぐ言いたくなる、しかしこれは3つの問題を持っていると、250年前にルソーが指摘しています。
 1つ目はそんなことをしていたら、子どもはそのうち息しなさいと言わないと、呼吸さえしなくなる、つまり自分で考えるのをやめてしまうということ。
 2つ目は規制され過ぎるとむしろ不道徳になってしまうということ。人は規制され過ぎると、どうやってそれをすり抜けてやろうか、どうやってルールを破ってやろうかと思う。管理されてコントロールされると、私たちは余計に不道徳になろうとしてしまう。そうではなくて、子どもたちが思いっきり自分を表現できること、そして「よく規制された自由の中で学べ」とルソーは言うが、なんでも自由ではなく、人に危害を加えるようなことにはNoと言う、よく規制された安全な環境の中で、子どもたちが思いっきり体を動かし、お互いに言葉を交わし合う環境を整えていくと、むしろ子ども達は自制していき、お互いの関係性を築いていくということを、250年も前に言っていて、数多く実証されている。
 3つ目は他者に対して不寛容になる。規制され続けると、ちょっと自由にしている人がいるとすぐに「ズルい」と見てしまう。ずっと規制され続けていると、例えば「このブランコは5分しか乗ってはいけません」と言われ続けると、そのルールをやぶっている子がいると、それだけで「あの子許せない」となってしまう。そうではなくて、自分たちで折り合いつけながら、関係性を築いていく場が整っていると、ズルいではなくて、どうやったらお互いの自由を認め合いながら、お互いに、より心地よく生きられるかということを考えられるようになる。
 こうした観点から見るとサドベリーのスタッフは、ルソーの教育論を地で体現されていると私は思いました。一人の人間として「私はこう思う」と言われてましたよね。それはわがまま放題を許すわけではない、「あなたのわがままは私の自由を奪うことがるよ」ということをはっきり言う。子ども達同士も言い合う。それがデモクラティックスクール、それがデモクラシーということ、お互いの思いや意志を、対話を通して、調整して、学校づくりをしていく、そういうことをフィルムのなかでされていた。
 多くの方がフィルムを観て「ほんとにこれでいいの?」と思われたかと思いますが、けっしてそれは学問的に言っても哲学的に言っても間違っていない、むしろ、原理的というふうに言えるかなと思いました。

【最後に】
 この映画が投げかけてくれたことを、これから私たちが受け止めて対話することが大事かなぁと思います。違和感もぶつけ合って、どんな教育がこれからの社会に必要なんだろうか、どんな風に自分たちで学校をつくっていけるんだろうかということをみんなで考えたい。私たちはこの社会も学校も、充てがわれるものという印象を持ってしまっているのではないかと思うんです。でも違うんですよね。この社会も学校も、自分たちがみんなでつくり合っていこう、そういった姿勢をすごく感じさせてもらった。これが正解だとか不正解だとかではく、みんなでいっしょに、よりよい学校を話し合ってつくっていく、その大きな大きなきっかけをいただいたんじゃないかなぁと思います。

苫野一徳氏
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